シュタルケル自伝

先日亡くなったヤーノシュ・シュタルケルの自伝(和訳)を遅ればせながら購入して読み始めた。400ページもある上に、含蓄に富んだ文章が続くので読み飛ばせない。最初の方を読んだところだが、第二次大戦中は生きるか死ぬかの瀬戸際で、大変な苦労をしたことが書かれていた。

彼はユダヤ人だったこと。父親はポーランドから、母親はウクライナからの避難民(?)でハンガリーに住んではいたが、市民権は持っていない在留外国人のままだった。そんな事情もあってナチスユダヤ人迫害が始まったら男兄弟3人のうち、ヤーノシュの兄たち2人は20代の若さで収容所で銃殺されてしまった。ヤーノシュはチェロの才能のおかげで20歳そこそこで、スエーデンのエーテボリ交響楽団から首席チェリストへの就任要請を受けることができ、パスポートを手に入れたものの、なかなか国外には出られなかった。 結局、収容施設で雑役をこなしながら、何とか生きながらえた。

戦後もソ連の管理下に置かれたハンガリーで不自由な暮らしをしたが、この人の人生が変わったのはアメリカのインディアナ大学から専任講師のポストを提供されてからだった。そのことで荒廃したヨーロッパ(食糧難)を脱出できたという。生まれ故郷のハンガリーでは国籍を持っていなかったから、故郷意識が薄いことが随所に感じられる。今日までに読めた70ページあたりまでは、そういう話が書かれている。山あり谷あり(戦時中は谷底)の人生体験を20代前半までにしたのだ。そういう境遇を救ったのがチェロの演奏技能だったわけで(すでに8歳の時に6歳の女の子を弟子にして教えていたそうだ。その女子もプロ奏者になった)、芸は身を助けるを地でいってる。若くして辛酸をなめる経験をしたからでもあろうか。シュタルケルの演奏スタイルは超辛口。ローマンチックな甘ったるい要素はなく、ぜい肉はすっかりそぎ落とされている。冷たいばかりに磨き上げられた形式美の背後にあるものが、自伝から読めてくる。

途中のコラムで楽器の話が出ていた。渡米してからストラディヴァリの「ロード・アイレスフォード」というチェロを貸与され15年間使ったこと。その楽器を返却することになり「ゴッフリラー」を手に入れたこと。マーキュリーに録音したバッハの無伴奏組曲全曲録音は、ちょうど楽器の入れ替え時期と重なり、1963年に録音した第2番、第5番はストラド、1965年に録音したその他のナンバーはゴッフリラーで演奏したことが語られていた。CDで確認してみたが、ストラドで弾いた曲は、音質がスリムでシャープ、柔らかさの中にも切れの良さがあり、ゴッフリラーで弾いた曲は艶やかで丸みのあるふくよかさが目立っている。ちなみに、「ロード・アイレスフォード」は、その後、日本音楽財団の所有となり、現在は石坂団十郎に貸与されている。

弓は自伝が書かれた1977年ごろは、フレンチ、ジャーマン、カナダ、アメリカの弓22本を所持していたらしい。その中で、特に思い入れのある3本について語られている。1本は彼が若いころ師事したチェロの先生が使っていたタブス(1720年頃〜1800)の弓、もう1本はシュタルケルが渡米後に就職したメトロポリタン歌劇場のオーケストラにいた旧友のために作られたヘンリク・カストン(1910〜)の弓。いずれも所有者の没後、シャタルケルに贈られたものだそうだ。

3番目も同様の経緯で、ピエール・フルニエが亡くなった時、未亡人(日本女性)から形見分けとしてシュタルケルに贈られたヴィネロン(1851-1905)の弓。このヴィネロンにはシュタルケルの希望でフロッグの金具にフルニエの名前が刻印された。さらにシュタルケルが死んだら彼の名前も追刻すれば、誰かがそれを受け継いでくれるだろうという願いが込められた由。フルニエ〜シュタルケルと伝来した巨匠2人の名前が入った特別な弓。それを受け継ぐチェリストって、誰だろう(?)


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