カザルス「バッハ無伴奏チェロ組曲」の復刻盤を聴き比べる

カザルスのバッハの無伴奏チェロ組曲のCDは何種類出ているのだろうか?SPレコード全20枚(39面)に録音されたのは1936〜39年だから、著作隣接権は切れている。ウェブ上には、このレコードに関して、カザルスの死後50年間は著作権が残っていると書いている物知りな人もいるが、作曲者はバッハだから著作権はカザルスにはない。レコードは発売されてから50年で著作隣接権が切れる。したがって、カザルス盤は、もうパブリックドメインになっている。

現在、いろいろなメーカーから出ているCDは、SPから板起こしした音源を使ったものになる。録音原盤はワーナーに吸収された旧EMIが保有している。かつてEMIから発売されたCDには、SPの金属原盤から板起こしした音源も含まれていたが、当該のカザルス盤がそうなのかは私は知らない。手元にあるCDはEMIが1988年に発売したもので、板起こしと音質修復を担当したエンジニアはKeith Hardwick と表記されている。長い間、私はこのCDでカザルスの演奏を聴いていた。

ちょっと前、EMIからSACDで同じ音源が発売されたので、それも購入してみた。こちらのマスタリングを担当したエンジニアはAndrew Walter。SACD盤のHMVのユーザーレビューを見ると、「自宅にカザルスが訪れて、眼前で演奏しているかのように生々しい。チェロのボディーに残る重い響きや、弦から指が離れるときにうっかり出てしまうキーンという音まで入っている」とか「待望のSACD化が行われることによって、更に見違えるような鮮明な音質に生まれ変わった。音質の鮮明さ、音場の幅広さ、そして音圧のいずれをとっても一級品の仕上がりであり、これが1930年代のSPの音とは思えないような見事な音質」とある。音質に関してはベタ褒めだが、果たしてそうだろうか?

SACD盤の解説を読むと、アナログ録音から96KHz/24bitでデジタル・トランスファーしたPCM音源をDSD変換したと書いてある。PCM音源を記録方式が違うDSDに変換すると、音質が劣化する部分が出てきてしまうことは知られている。従来のCDでは容量が小さいので今のハイレゾ音源は入りきらない。そのためPCMのまま大容量で記録可能なブルーレイオーディオ盤も出ている。元がPCMの場合は、他方式に変換しなくて済むブルーレイが有利になる。それはともかく、カザルス盤は、1930年代のSPレコードからの板起こしなので、SACDのメリットがどこまであるのかも疑問に思っていた。

SACDが出るまで最も優れた復刻として有名だったのは、2003年に出た日本の「オーパス蔵」のCDである。同盤は2010年に新リマスタリング盤に変わり、パチパチノイズを低減し、低音が出過ぎていたのを押さえ、より聴きやすい音質に生まれ変わった。オーパスの解説によると、復刻の音源に使ったSPレコードには日本ビクター盤、英EMI盤、米VICTOR盤とある中で、HMV盤は音質はいいものの、チリチリノイズが大きくて使用を断念し、アメリカ盤を採用したとのこと。

今回、あらためて3種類のCDとSACDを聴き比べてみた。結論から先にいうと、オーパス蔵の2010年リマスター盤(2003年の初版CDは表紙に金のストライプが入っているが、2010年盤はそこが銀色に変更されている)が、最もチェロらしいリアルな音質だった。

この手のCDのリマスタリングは、メカニカルな技術の進歩と同様に、あるいはそれ以上に、音質をいじるエンジニアのセンスの影響が大きい。これまで、CDの新リマスタリングによる音質改良を謳ったレコード会社の宣伝に乗せられて、同じ音源を何度も買い直したものだ。

それで分かったことは、音質改良と称してエンジニアがあれこれといじった最新リマスタリング盤(厚化粧の整形美人的音質)よりも、初期盤CDの方が、素朴というか素直な(すっぴんな)音質であり、情報量も豊かな場合が多いということ。最近、各社がさかんにやっている箱もの大安売りセットでも、かつて単品で発売された初期盤に比べると、音の厚みが薄く貧相な音になっているケースが少なくない(特にEMIが出した一連のBOXはその傾向が顕著なので要注意)。

オリジナル音源がテープ録音の場合は、テープ自体の劣化が進んでいなかった早い時期のデジタル・トランスファーの方が有利という面もある。カザルス盤はSP原盤なので、テープの劣化は関係なさそうだが、音質の生々しさはSACD盤や1988年のEMIのCDよりオーパス蔵(2010年)盤が最もよい。オーパス盤では、ゴッフリラーが作ったチェロの木製の箱が共鳴している感じが素直に再現されている。

これに比べると、EMIの初期CDは、ノイズカットをかなりしたためか周波数帯域が狭く、全体的にこじんまりしている。スケールダウンした音に艶っぽさを加える処理(電気的なエコー)を加えているので、木製のチェロというより、カーボンファイバー製の楽器を、カーボン弓で弾いているような、癖のあるプラスティック的な照りがまとわりついた音になっている。

SACD盤でも無機質的な傾向は残っているが、CDからSACDに移行した音源にありがちな、音のふくよかさ、柔らかさの演出があるため、テカテカした安っぽい艶は押さえられている。SP特有のノイズはかなりカットしてあるので、聞きやすいといえば確かにそうだ。しかし、その分、楽音もかなり削られたと考えるべきだろう。この手の音を、漂白された音と形容する人もいる。私は、カットされたノイズの分量だけ厚手になったベールの向こうで、カーボン弓で演奏するチェロの音を聴いているような印象を持った。

オーパス盤の解説には「最近はノイズを著しくカットした復刻が多いが、注意して聴くと音が痩せている例が多い。オーパス蔵の音はノイズ取りは原音を損なわない範囲の最初限の使用に限定している」とある。オーパスのCDの音はまさにそのようで、SPレコード特有のノイズは3種類の中では最も目立つが、チェロの音の変質はもっとも少ないように思われる。1930年代のSPレコードであるにも関わらず、よくぞこれだけの情報が詰め込まれていたと感心するリアリティがあるのだ。自分でチェロを弾く人にしか分からない差かもしれないが、EMIのCDやSACDの音は、機械的加工の介在を意識させ、ストレートにチェロを感じさせるものではない。ということでSACDを買ってはみたものの、オーパス蔵盤の復刻の優秀性を確認する結果となってしまった。

SPレコードにはその材質にある固有の雑音があるが、これを少しでも取り除くと、レコードに刻まれた楽音が変質してしまう。人間の脳は雑音と楽音を選択する能力を持っているから、聴きはじめは雑音と感じてもすぐに音楽だけに没頭できるので、復刻に際して雑音処理薬は無添加であるべき」という意見がある。正論だと思う。




EMI 1988年盤


EMI SACD盤 2011年


オーパス蔵盤 2010年









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