「マタイ受難曲」

今日は2012年に亡くなった吉田秀和さんの命日。ご存命なら今年で100歳だった。ちょうど本日、取り寄せたバッハの「マタイ受難曲」のDVDが届いたので、故人が「マタイ受難曲のことはまだとても書けないけれど」という見事なエッセイを残しているこの曲を視聴して偲ぶことにした。

吉田さんはエッセイの中で、バッハから1曲を選ぶなら「マタイ受難曲」か「ロ短調ミサ」のどちらだろうかと自問し、少し逡巡してから「マタイ受難曲」を選んでおられた。一生にそうそう何度も聞ける音楽ではないとも。

同感である。音楽の構造美という点では「ロ短調ミサ」が上位に来るかもしれないが、「マタイ受難曲」ほどに赤裸々な人間心理を描いた作品は、そうそうない。後の時代のオペラならそういう種類の音楽もあるだろうが、キリストの受難をテーマにしているこの曲の深さは、恋とか愛、嫉妬とか猜疑心とかを扱った並みのオペラの及ぶところではない。

そういう音楽なので、わたしはバッハの「マタイ受難曲」のCDは、見かけたらとりあえず買い揃えることにしている。現在、手元に40種類ほどがある。しかし、全部を聞いているわけではない。長大な曲であるし、内容が内容だけに軽く聞き流すというわけにもいかない。

聞き所は、ペテロの否認からイエスが十字架上で息を引き取り、その直後に地震が起きて神殿の幕が裂ける奇跡を見た群衆が「まことにこの人は神の子であった」と詠嘆するあたり。
「まことに・・・」の箇所は短い音楽だが、この大作の肝というべき部分で、バッハの自筆譜では、ここは音符の間隔を調節して、あたかも五線譜上に十字架が浮かび上がって見えるように書いてある。そのことは礒山雅氏の研究書「マタイ受難曲」で知った。 吉田さんも、リヒターの演奏はここを全曲の頂点として構想されていると指摘されている。

メンゲルベルクフルトヴェングラーカール・リヒターなどは、エヴァンゲリスト絶唱の後、合唱のテンポを落とし、通奏低音に寄り添って静かに潮が満ちてくるようにたっぷりと感情移入させ、感動的に歌わせている。一方、最近のピリオドスタイルの演奏では、そっけなく過ぎ去ってしまう場合が多い。何考えているんだか?と思う。

今日、わたしが視聴したDVDは、カール・リヒターが1971年にスタジオ収録したユニテル盤である。幸いなことに、映像がフィルム撮影で残されたので、DVDでもかなりの解像度があり不満なく見ていられる。

エヴァンゲリストはシュライヤー、それにヘレンドナート、ユリア・ハアリ、ホルスト・ラウベンタール、ワルター・ベリーら往年の名歌手がソロを歌っている。肝心のイエス役はErnst Gerold Schrammというバス歌手が担当している。よく知らない人だが、品格の高い歌唱で十分に魅力的。

オケはミュンヘンバッハ合奏団を2つに分けて、指揮者の左右に配置している。両方のオケに4人ずつ、合計8人もフルートがいて、横一列にズラリと並んでい吹いている。オーボエも多分同じ。合唱団も2つに分かれ、中央に少年合唱を置く配置。スタジオでセットを組んでの収録のため、かれらの頭上には巨大な十字架が吊り下げられている。仰々しいハリボテに頭を押さえつけられているみたいで面白味のある演出ではないが、チェンバロを弾きながら指揮するリヒターの姿が拝めるのは貴重。 「まことに・・・」の箇所では、チェンバロを弾きながら指揮をしていたリヒターが途中から立ち上がり、両腕を大きく動かしながら合唱団から驚きと感嘆、悔悟と祈りの感情が入り混ざったモノローグを引き出している。

演奏スタイルはこの指揮者の3種類あるCD(1958年、69年、79年)と比較すると、後期のものに近い。切迫感のある演奏というより、楷書体で淡々と進めていく感じ。最初の58年盤は、テンションが高すぎてめったに聞けるものではないから、このぐらいの中庸な解釈の方がありがたい。

録音状態も悪くなく、最近の録音と比べても遜色ない鮮度が保たれている。この演奏から40年以上が経過し、バッハの演奏スタイルもずいぶんと変わった。今ではバッハが動員出来た奏者の頭数を勘案して、ごく少人数で歌う場合もある。それが作曲者が希望した理想の編成なのか、経済的あるいはその他の理由で使える奏者の人数が限られた結果(やむを得ず)そうなったのかは知らない。スタイルがオーセンティックかどうかということと、演奏のいい悪いは別である。 この曲のスケールからすると、現代のコンサートホールで聞くならば、リヒター盤の人数ぐらいで演奏して全然OKという気がする(フルート8本は・・・微妙)。

ある方のHPに〜「マタイ受難曲」と言えばリヒターである。オリジナル楽器派の新譜をいくらたくさん聴いても、ちゃんと「マタイ」を聴こうと思ったときはリヒター盤をうやうやしく神棚から出してきて聴くのである〜とある。カール・リヒターの「マタイ受難曲」の演奏が4種類も残ったことには感謝したい。



    





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