指揮者ニコラウス・アーノンクール

3月5日に86歳で亡くなったニコラウス・アーノンクールの芸風については賛否両論があったと思う。ベームとかカラヤンの演奏スタイルが主流派だった80年代までは、バロック音楽の専門家としての仕事しかしてなかった。レオンハルトと共同で、史上初となるバッハのカンタータ全集の録音事業を1971年から89年まで、18年かけてゆっくりと進めていたのは知られていたが、指揮者としての存在感、評価はウィーンの小アンサンブルを率いるマイナーな存在でしかなかった。

当時のアーノンクールがやっていたバロック音楽の演奏は、盆栽みたいに枝がクネクネと不自然に曲がりくねった異形が特徴で、私などは比較出来る演奏が少なかったこともあり、それが往時のバロック音楽の語法を再現したものなのだと思い込んでいた。特にヴィヴァルディ「四季」の録音(1977年)はたいそう面白く、それまでのイ・ムジチとかミュンヒンガーとかの演奏が、表面的に楽譜をなぞっただけの生温い音楽に聞こえてしまうほどのインパクトがあった。アーノンクールの譜読みの深さ、つまり作曲者が文芸作品の音化を意図した部分を極めて効果的に再現する手腕には畏れ入った(たとえば「春」の2楽章でビオラが犬の鳴き声を模倣する箇所などは本当に犬が吠えているように聞こえる)。

しかし、80年頃から頭角を現してきたアーノンクールよりも若い世代のイギリスのピリオド派の指揮者たち(ガーディナー、ホグウッド、ピノック)の爽やかな音楽を聞いたら、アーノンクールがやっていたスタイルが、時代考証を踏まえた学究的なものというより、かなり癖のある人物の老獪な個人的表現に過ぎないのではと思うようになった。

その後、アーノンクールモーツアルトハイドンベートーヴェンを経て、ブラームスやウィンナワルツ、ヴェルディブルックナーまで振るようになったのは周知の通り。カラヤンバーンスタインクライバーなどのスターが相次いて去り、アバドマゼールがいるとはいえ全般に指揮者が小粒になっていったから、巨匠に奉られやりたい放題。どの時代の音楽をやってもアクの強いケレン味たっぷりの音楽をひねり出し、聴衆もドッキリ体験を期待していた。従来の常套的、慣用的な表現を捨て去り、白紙の状態から音楽を再構成しようとする狙いはよくわかったし、毒にも薬にもならない音楽よりスリリングな面白さで勝っていたから人気が急騰したのも理解出来る。

私はあの刺々しい表現に馴染めず、嫌いな指揮者の代表格になったとはいえ、アーノンクールの新録音が出ると怖いもの見たさというか、過激な演奏を一応は聞いてみるのが習慣になっていた。毎度、耳はたっぷり刺激され、ああその手があったかと感心はするけど、心に届くものはない。アーチストではなくアルチザンの演奏と思うのがいつものパターンだった。

アーノンクールウィーン交響楽団のチェロ奏者からキャリアをスタートし、後にバロック音楽専門の室内楽団を組織して指揮者に転じた。チェロ奏者としての録音にはバッハ「無伴奏チェロ組曲全曲」(64年頃、35歳前後の録音)がある。バロックチェロを使い速めのテンポで力強く弾いている。重音奏法に意識的な騒音性を加味してオヤっと思わせたりするが、現代のバロック・チェロによる演奏とはだいぶ違う。全体的には深みとかコクに乏しく、ゴリゴリと押す無骨さがちょっとせっかちな印象を与える。重厚長大型のバッハ演奏が普通に行われていた60年代は、時代考証の成果といってもまだこの程度。情緒性を排したドライなスタイルにはそれなりの意味があったのだろうが、今となっては過渡期のスタイルというか、方向性が曖昧で、垢抜けずもっさり、リズムの切れが悪く鈍重に感じる。バッハを、特に宗教音楽を指揮する時のアーノンクールは別の人というか、小賢しい奇抜さよりも手堅さが勝っているように感じる。ロ短調ミサとかマタイ受難曲は、デジタル録音による新盤よりも60年代の古い録音の方が抑制が効いていて好ましく思える。クラシック音楽の演奏スタイルの流行はいずれ変わるだろうが、バッハのいくつかの録音は、ある時代の記憶として残るような気がする。




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