東京都庭園美術館の展覧会を見てきた

東京都庭園美術館で開催中の《装飾は流転する「今」と向きあう7つの方法》という長いタイトルの展覧会を見てきた。ヘラクレイトスの言葉「万物は流転する」をもじった小難しいタイトルを見た時点で、『美術手帖』などを愛読するナイーブな若者向けの企画、コンセプト優先ではないかという予感がした。あそこは新館を増築して展示面積が増えてから現代美術の展覧会が増えた。以前の展示スペースは本館のみ。旧朝香宮邸を美術館に転用した施設であるため、広さ的にも使い勝手にも制約があった。学芸員さんはいろいろご苦心されたと察する。増床工事の結果、そういう制約からは解放されたのだろうが、その結果どうなったかというと、従来の庭園美術館のカラーが希薄になり、展示自体も散漫な印象を与える展覧会が増えた。今回も本館2階には作品が置いてない部屋があり、スペースを持て余した印象。一定の枠組み(足かせ)が与えられているということは、その範囲で出来ることを考えればいいわけで、アール・デコ様式の建物の雰囲気も独自性をキープするために作用していたはず。制約は必ずしも悪ではないのだ。新館が出来て、何でもありとなった結果、今度は庭園美術館自体の位置づけや性格が曖昧になってきた。

《装飾は流転する「今」と向きあう7つの方法》展は、いささか詰めが甘い内容でがっくり。大半の作家は既視感の強い着想と、制作技術の未熟さを露呈していた。レーザーカットで鉄板を切り抜き、繊細な透かし彫りを作った作家などはマシな方だが、PCと工作機械を使った金属加工技術のデモンストレーションに思えてくる。素晴らしく精緻な加工技術により見事な出来ではあったが、感心するのは工作機械の精度の方。19世紀のネオ・ゴシックの亜流デザインで、オウムガイやダンプカーを作られても、それがどうしたと聞きたくなる(いかに作るかに関心があり、何を作るかは二の次ということ)。3Dプリンターを使って既存美術のモチーフを表面に転写したスツールも同様。新しい機械を使っている点のみに新しさを感じた。伝統工芸系の作家が見たら何というだろうか。2階の書庫に置いてあったミニチュア本などは、ドールハウスのアイテムそのものだし、江戸切子もどきのガラス小杯数点は存在感が弱くて見落としてしまいそう。服飾関係の展示品はデパートのショーウィンドウのディスプレイを持ち込んだような。作家はピンキリだから、今回出ている作品が低調だとしても、それは作家の力量の反映で仕方ない。問題はそういうレベルの作家を選んだ側にある。

かつて装飾は豊かさの象徴であり、作り手は飾る喜びを作品に込めていた。庭園美術館に並んだ作品の中には、伝統的な装飾観に対する懐疑や否定を主張するための手段として工芸を使っているのではないかと思われる例もあった。死体の顔をアップで撮影した映像作品などは、従来の庭園美術館のイメージからは想像出来ないほど気持ち悪い。この展覧会に参加した作家は、作ることが目的ではなく手段化しているため、手仕事を軽視しているのかもしれない。頭でっかちで手が動かない作家の作品は売れないだろう。というか最初から売ることを考えてない。彫刻を施したタイヤとかスーツケースは、実用性を無視している点で本末転倒の飾りのむなしさを伝えてくる。使われない工芸、見せるだけの工芸という考え方を否定するわけではないが(日展系の作家にはそういうコンセプトの人がいる)、工業製品の絵皿に少し絵を描き加えてみたり、古着・古布(少し焦げていたりする)を山積して作品でございといわれても、今さら何をという感じ。20世紀前半にそういうチャレンジが流行ったことがあったが、その手はもはや古いのだ。「今」と向き合うという展覧会のタイトルには疑問を感じた。庭園美術館の展覧会といえば建物の品格に釣り合う内容を維持した高級ブランド的なイメージがあったが、開館以来35年が経過して館員の世代交代が進む中、どこにでもある美術館のようになってしまったのは惜しまれる。1983年に朝香宮邸が美術館として一般公開された時の感慨を覚えていない世代、生まれた時からあそこが美術館だった世代が当事者に加われば、そういう流れになってくるのかもしれない。庭園では例年通り白梅が咲き始め、この季節ならではの凛とした風情。年年歳歳花相似 歳歳年年人不同。

    
      工作機械に感心した作品

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