ポーラ美術館「エミール・ガレ 自然の蒐集」を見る

ポーラ美術館で開催中の「エミール・ガレ 自然の蒐集」展を見てきた。導入部の最初の部屋は広々として、箱根の森の木々が見える大窓を背景にしたしつらえ。ゆったりと広がる空間を贅沢に使い、借景との取り合わせの妙味に感心した。これほど自然光がたっぷり入る展示は今までにあっただろうか?


しかし、それ以後の部屋の展示は照明が暗くて作品がよく見えないとか、展示ケースの内側に貼ってあるクロスの色味が派手過ぎて(真っ赤とか、濃いブルーとかの原色が目立った)、ガラス作品の中にクロスの色が映り込んで妙なことになっていた。

東京大学博物館から借りた昆虫標本の展示がひとつの目玉らしいが、真っ黒な小箱に虫がはいっているため、薄暗くて虫の細部はよく見えない(個人的にはカマキリの標本とかは不気味ゆえ、見えなくていいかもと思った)。もともと、あそこは絵画用の展示室である。パリの夕暮れ時の光のイメージで作品を見せる趣向で設計されている。ほの暗いやわらかな照明効果が標準装備されているから、そういう空間でガラス工芸をきれいに展示するのは難しいのだろう。とはいえ、ポーラ美術館を見に来るお客さんは、そんな設計者の配慮は知らない。肝心のガレ作品がよく見えないと、展示技術が稚拙と思ってしまう。ヨーロッパでは窓際にガレを置いて、自然光で作品を見せている美術館もあるけれど、日本では比較的強めの光でライトアップして展示する例が多い。薄暗い照明はなかなか支持されないだろう。他の来館者も「なぜこんなに暗いの?」といっていた。


それから、この展覧会に作品を貸し出している所蔵者が、ガレ作品に表現されているモチーフを見誤り、適正とはいえない作品名を付した例をいくつか見かけた。植物のオキナグサを表現した作品をアネモネ文花瓶と命名した例では、オキナグサの花瓶の横にアネモネの標本や図譜を一緒に並べていた。明かに異種とわかる。同じくオキナグサを表現した花瓶を海藻文花瓶と命名した例では、海のコーナーに置いてしまう不手際も(当該作品のモチーフがオキナグサであることは、制作過程で作られた下図が残っているため植物名が判るのだ)。そうなると作品とモデルになった植物の並置展示という基本コンセプトが少し崩れてくる。

ガレの作品名の多くは作家自身による命名ではなく、現在の日本の所蔵者(個人コレクター、骨董商、美術館学芸員)がそれらしい名前を付けた場合が大半ということなので、この手のモチーフを間違えるミスが時折出てくる。フランス本国では作品名は単なる「花瓶」とか「ランプ」だけが多いが、日本人は茶道具風の仰々しい名称を有難がるため、ものものしい名前を付け、たまに間違えたりするのだ。展覧会担当者は、作品のモチーフとなっている植物と作品名が一致しているかどうか、名前に間違いがないかどうかを自身の目で(もしくは植物学の専門家に依頼して)再確認していないのだろう。

図録はコンパクトに編集され、文章は東京大学博物館教授、ポーラ美術館学芸員、今回の展覧会に作品を貸し出した外部の美術館の学芸員らが分担執筆している。その中に、論理の展開に無理があり、独りよがりな牽強付会と読める文章を書いている人がいるのは残念である。

例えばガレの「海馬文花器」の作品解説はこんな感じ。《タツノオトシゴの装飾を脳の記憶機関「海馬」と結び付け、ドレフュス事件の過ちを未来永劫忘れるなという象徴とする解釈もあるが、脳内の海馬は新しい記憶を一時的に保存するに過ぎず、矛盾する。ガレの意図は定かではない》(図録161ページ)

短い文章だが、この中にいくつか引っかかる点がある。ドレフュス事件ユダヤ人への差別・偏見がからんだ冤罪事件であるが、無罪判決が出て、国論を二分した大事件が冤罪と確定するのは1906年である。この作品が作られた1901〜03年の時点ではドレフュスの有罪判決はまだ覆されていない。つまり「過ちを未来永劫忘れるな」と誤審に対する反省をアピール出来るタイミングは1906年以降となる。ガレは1904年に死去しているから冤罪確定後のこの種の主張は出来ない。タツノオトシゴと脳の「海馬」を結び付ける解釈を我が国に紹介した人も、その辺の事情を勘案し「過ちを未来永劫忘れるな」などという極端な書き方はしていない。

脳の中の一部位である「海馬」の名称は、ルネサンス後期のイタリアで活躍したボロ−ニャ大学の解剖学者アランティオ(Arantio)が、1587年にこの脳部位を「海馬(Hippocampus)と名付けたことに由来するそうで、ガレが「海馬」と呼ばれる部位が脳内にあることを知っていた可能性は否定できない。その「海馬」が新しい記憶を一時的に保存する機能を持つことは、図録の解説者の書いたとおりである。だが、その機能が判明したのは1950年代であり、ガレ作品が作られた1901年時点ではまだ「海馬」の機能の詳細は知られていない。つまりポーラの図録の解説執筆者の勇み足といえる。

「海馬」の役割に関しては1957年に出されたScovilleとMilnerの報告が神経心理学に重要な一石を投じた。これはHMというイニシャルをもつ患者の報告である。おそらくHMは神経心理学の分野ではもっとも詳しく検査された人物である。彼はてんかんの治療の目的で両側の海馬を取り除く手術を受けたが、その後、新しい情報を長期記憶に留める能力が永遠に欠如してしまったのだ。この発見を機に、海馬は、記憶・学習の脳内メカニズムを理解しようという風潮から、神経解剖学、生理学、行動学などの分野で盛んに研究されるようになった。現在では海馬と記憶の関係は疑いのないものとなっている。
http://gaya.jp/research/hippocampus.htm

「海馬文花器」が作られた1901年頃に時代を戻してみると、ガレはこの年、同じデザインで作った花器に「真実の解明に命をかける」という意味の刻銘をしてドレフュスを擁護した弁護士に献呈している。「海馬(タツノオトシゴ)」が脳の一部の呼称と同じであることから、脳=考える器官という図式が成り立ち、無実を訴えるドレフュスのことを考えるというメタファー(暗喩)が成立する余地が出てくる。

ポーラの図録の解説者は、一時的な記憶とのコントラストを強調するために「未来永劫」という大げさな言葉を使ったのだろう。誘導の作為が露骨にわかる文章は稚拙で、印象操作が流行る今の時代らしいともいえる。考えることと記憶する行為は意味が同じとはいえないから、解説者が主張する「矛盾」を認める必要はなかろう。2018年の現代人が知りうる情報と、1901年頃の知見の差を考慮しない時系列を無視した思考の産物と読めてしまうのは遺憾である。既存の解釈(海馬=脳=思惟は、2004年にフランス人が提唱した説)を否定したいがために理屈をこね、墓穴を掘ってしまったように思われる。

ポーラ本体では4代目社長(ポーラ美術館理事長)による有印私文書偽造疑惑が報じられている。いろいろ大変そうではある。
http://news.line.me/articles/oa-rp25870/dbb2145c3d7d


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