「ミケランジェロと理想の身体」展を見る
19日から西洋美術館で始まる「ミケランジェロと理想の身体」展(内覧会)を見てきたてきた。
古代ギリシア、ローマの人体表現とルネサンス時代のそれを対比して眺める趣向。ギリシア関係では古典盛期まで遡るのは赤絵式の壺絵ぐらいで、ヘレニズム時代のものが多かった。ローマ時代の彫刻は1世紀頃のものが目立った。それに2年前に六本木の森美術館で開催されたポンペイ展の呼び物だったヘラクラネウム(ポンペイと同時に火山灰に埋もれた都市)出土のフレスコ壁画、3点(①「子供たちを解放するテセウス」、②「ヘラクレスとテレフォス」、③「アキレウスとケイロン」が再びお出まし。この3点は主役級の存在感があるけれど、今回は脇役。何という贅沢。
② H..218cm
ミケランジェロ作品は目玉である《ダヴィデ、またはアポロ像》(どちらを表現したのは不明なのでこういう名称になっている)がよかった。高さ147cmと小さめ。フィレンツェで制作していたが、完成前にミケランジェロがローマに行ってしまった結果、未完に終わったという。表面を磨いてないので鑿跡がよくわかる。まどろみ、あるいは憂いというか、対象の心の微妙な動きが滲み出ているように思えた。そういう刹那的な心象表現はギリシア古典彫刻には無い要素である。
《ダヴィデ、またはアポロ像》
隣の部屋に置いてあったミケランジェロ若き日の小品《若き洗礼者ヨハネ》は、1936年のスペイン内戦の折に破壊され近年復元したもの。壊れたパーツが全部残っていればよかったけれど、失われた石材もかなりあって、その部分は記録写真を参考にして復元接合している。オリジナルの部分との色の違い、表面のテクスチュアの相違が目立ち、木に竹を接ぐがごとし。昔の写真では可愛い少年像に見えるけれど、復元像は顔が不気味過ぎる。復元作業に関わったチームは苦心されたようだが、結果は残骸感が強調され、異様な物体に見えた。在りし日を偲ぶなら、模刻像を一から作って、それを一緒に並べたらいいのではなかろうか。
《若き洗礼者ヨハネ》 破壊される前の写真
サントリー美術館の乾隆ガラス展でも感じたことだが、影響関係を考えさせる企画の場合は、影響を受けた側が何をしたか、どこをどう変えて新たな創造としたかに焦点を当てないと意味がない。似たもの同士を並置して「似ているでしょう」と提示するだけでは感心しない。図録は何がどこにあったとかのドキュメントの記述が多い。