セザンヌ「赤いチョッキの少年」のズボンは何色?


ルノワール「イレーヌ・カーン・ダンベール嬢」

国立新美術館で開催中の「至上の印象派 ビュールレ・コレクション展」を見てきた。スイスの個人コレクションだが、非常に有名な絵画が数点含まれている。もっとも人気があるのは、ルノワール作「イレーヌ・カーン・ダンベール嬢」だろうが、セザンヌが1888点〜90年頃に描いた「赤いチョッキの少年」も美術の教科書などにしばしば掲載され、セザンヌの画業を語る際には必ず言及される高名な作品である。モデルの少年はミケランジェロ・ディ・ローザという名前らしい。セザンヌはこの子をモデルにして4点の油彩と2点の水彩を描いたという。私は「赤いチョッキの少年」の実物を拝見するのは初めてだったが、見ていると非常に居心地が悪くて、後味がよろしくなかった。セザンヌの絵が複合視点で描かれているのは承知しているものの、この絵のモデルがどういうポーズをしているのか、よくわからなかったのである。



ビュールレ・コレクションの「赤いチョッキの少年」

少年は頬を支えている左腕の肘を緑色の物体(展覧会図録の解説ではソファとなっている)に乗せ、右手は焦げ茶色の物体(図録の解説ではテーブルとなっている)の上に置いている。少年の頭の後方にはグレーの壁があって樹木を描いた絵画が掛かっている。頭髪に重なるように引かれた黒っぽい横帯は、図録の解説によると茶色の羽目板で、その下には白い壁があるらしい(私は白いクロスを掛けた大きなテーブルがあって、そこに肘をついているのかと思った)。少年の背後の壁と額縁は、画面左端上部から垂れ下がる暗い色調のカーテンで一部が覆い隠されている。問題は少年が右手を置いている焦げ茶色の物体である。図録の解説文はこんな感じ。

「少年の頭から青いズボンにいたるなだらかな曲線と、存在感のある右腕は、右端にあるソファの縁から左下へと延びるテーブルの斜めの線に対抗しており、背後の茶の羽目板とその下の白い壁の水平線が、画面に変化を与えている」(図録144ページ)。

この解説を執筆された長屋光枝さん(国立新美術館学芸課長)は、少年は青いズボンを着用し、焦げ茶色のテーブル上に右手を置いていると説明している。しかし、私の目には、茶色い物体はテーブルのような固い存在というよりも、縁が波打っている布か皮革製品のような柔軟性のある物体に見えた。そもそも、この少年の下半身、腰から下がどうなっているのかがよくわからない。茶色のテーブルのようなものの下に脚を突っ込んでいるのだろうか。あるいはテーブルと解説された物体は、ひょっとして少年のズボン(?)とも思ったが、それではモデルの胴体が長くなり過ぎる。赤いチョッキの下に見える青く塗られた箇所は、確かにズボンのように見えるが間違いないだろうか。少年はスツールのような背もたれのない椅子に腰かけているのだろうか。その辺の情報が曖昧で作品からははっきり伝わってこない。

展覧会場で作品を前にして居心地が悪くなったのは、これらの疑問の答えが見つからなかったためである。現場でいくら眺めても正解が出てこない。帰宅後、「赤いチョッキの少年」の連作を調べたら・・・謎が解けた。

まず、ニューヨーク近代美術館にあるバリアント①を見ると、案の定、背もたれのない丸椅子のようなものに腰かけていることがわかる。座面は白と青のストライプ。さらに赤いチョッキの下の青い部分はズボンではなく、チョッキの一部、あるいは腹帯のような上着であり、ズボンの色は青ではなく茶色であると判明する。


ニューヨーク近代美術館

同様にバーンズ・コレクションのバリアント②(モデルを正面から描いている作品)を見れば、謎の茶色の物体がテーブルでないことは明らかであろう。この絵では少年の背後の壁面の様子もよくわかる。


バーンズ・コレクション

ワシントン・ナショナル・ギャラリーのバリアント③(立ち姿のモデルを正面から描いている)でも、少年が青ではなく茶色っぽいズボンをはいていることがわかる。


③ワシントン・ナショナル・ギャラリー

個人コレクションにある水彩画④でもズボンの色調は青ではなく、木製椅子の上に布製の丸い座布団みたいなものを敷いて座っている様子がわかる。


④個人コレクション

以上のバリアントから得られた情報を勘案すると、ビュールレ・コレクションの「赤いチョッキの少年」は、焦げ茶色のズボンをはいていて、自分の右脚の太ももの上に右手を置いていると理解できるだろう。画面左下の隅、少年の茶色のズボンの下にちらっと見えている暗い青とグレーのストライプ模様は、座布団の縞模様である。

少年の下腹部は異様に引き伸ばされ、ズボンはダブダブのローライズみたいに描かれている。軟体動物のようにくねった腰のあたりの不自然さは、セザンヌの仕掛けがわかると、やり過ぎというか、気持ち悪い。一連のシリーズ中で、ビュールレ・コレクションの作品は、最も手が込んだ変則技が採用されている。展覧会場でこの絵を見た瞬間に感じた不可解な気分の理由がはっきりした。セザンヌは人体のプロポーションを無視したデフォルメをしているのである。右腕が実際以上に長く描かれていることはだれでも気付くが、下半身の異形は、ズボンをテーブルと見間違う人がいるくらいで、もっとすさまじい。セザンヌの画面構成は大胆不敵。毎度のことながら、謎解きを要求してくる作画が多い。この厄介さ、一筋縄ではいかないところは、セザンヌ画の妙味でもある。


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