この書評は痛快!「政府は実質、自分で何かを決めたことも、率先して対策を練ったこともない人々の吹き溜まりである」

『僕にもできた! 国会議員』(山本太郎=著 雨宮処凛=取材・構成)書評

 理想主義者の代名詞に「ドン・キホーテ」というのがあるが、山本太郎ほどこの称号にふさわしい男はいない。通例、揶揄のニュアンスが付いて回るが、徒手空拳で巨悪に突撃してゆく蛮勇こそ現在の政治家に最も必要とされる素質である。その理想は憲法に忠実で、あるべき政治道徳に則り、国民に安全で健康な生活を確保しようとする高潔なものだ。国会には七百人以上の議員がいるが、山本太郎と何人かの例外を除けば、ほとんどの議員が多数派の頭数合わせと己が既得権益を守ることしか頭にない。山本太郎が理想主義者として浮いてしまうこと自体が政治の退廃、劣化の証左になっている。

 山本太郎の六年間の議員活動はちょうど安倍政権の悪政と重なるが、この間に悪政があまりに自明のことになってしまい、有権者のあいだに諦めムードが広がり出した。もちろん、野党議員たちは国会や委員会で政府の対応を批判し、数々の疑惑に対する真相究明を続けているが、首相はじめ政権担当者たちは呼吸するように嘘をつき、公文書の改竄と偽造は当たり前、幽体離脱したかのように当事者意識を欠き、一様に記憶喪失に陥っている。もう少し道理を知っているはずの男たちも、破綻の予感を抱きながら、傍観している。政府は実質、自分で何かを決めたことも、率先して対策を練ったこともない人々の吹き溜まりである。

 結果、財政破綻は秒読み、廃炉への道は遠く、放射能はアウト・オブ・コントロール、外交、安全保障政策も全て裏目に出た。無為無策の首相や子どもの使いの外相を置き去りにして、国際政治の謀略は容赦なく進行する。相手の厳しい次の一手には対応できそうもない。貧困問題もいよいよ深刻になり、生活苦を強いられた庶民のあいだから、怨嗟の声が上がる。純粋な理想主義者がムチを入れなければ、政府はピクリとも動かない。

 首相とその不愉快な仲間たちは官房機密費を使って、マスメディアを籠絡し、世論操作することも、内閣人事局を通じて、官僚を丸め込むことも、首相権限を振りかざして警察や司法に圧力をかけることもできるが、その絶大な権力を使って、やることといったら、自分たちの不正、失策を隠すこと、アメリカ大統領のパシリとして貢ぎ、日米安全保障条約および日米地位協定憲法の上に置き、この国の占領状態を維持し、その利権で私腹を肥やすことだけだ。山本太郎は活動資金も限られ、官僚やマスメディアを操ることはできないが、彼には有能なブレーンがついていて、ボランティア的に彼をサポートし、戦略を授けてくれるので、国家権力を私的に濫用する極右政権相手のゲリラ戦はかなり奏功しているといっていい。そのゲリラ戦の主戦場は国会中継で、政府側が誤魔化しと嘘でしどろもどろになる中、舌鋒鋭く切り込んでゆく様子はまさに「山本太郎劇場」だ。山本太郎は質問を通じて、被災者支援等で政府に善処を促すことに成功している。

 有権者が無知で無関心でいる限り、悪政は続く。礼儀正しく、おとなしく、他人を攻撃せず、空気を読む。そんな人々の沈黙の同意によって、不正が見逃される。右でも左でもない中立の立場でいる限り、極右の専横は容認される。そうした「無関心な人々の共謀」をいかに打破するか、それが問題だ。もし、それに成功すれば、政権にとっては致命傷になる。待望されるのは政治の不毛を笑い飛ばしつつ、常識を覆すリベラルのトリックスターである。

 六年前に俳優から政治家に転身した時、彼自身が一般の無関心層と変わらない素人だった。だが、謙虚に勉強を続けるうちに堂々と無能な為政者たちに正論を突きつける市民視線の政治家になった。ここ六年間の山本太郎の軌跡は、「王様は裸だ」といえる正直者の素人にしかこの国は変えられないということを如実に示している。「山本太郎が首相になる」と聞いて、「まさか」という人は政治の本質をまだわかっていない。実際、極右マフィア政権が六年も続くという「まさか」を見てきたのだから、その反動から山本太郎首相の誕生は十分あり得ると考えなければ、やってられない

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           http://www.webchikuma.jp/articles/-/1710

 

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弦楽合奏#31

先週に続いての練習参加。メニューはこんな内容・・・≪ 基 礎 練 習 ≫はオリジナルの基礎練習曲(初歩的音階)と②Handel     Water Music No.1 Overture

 

≪ 曲 の 練 習 ≫はMozart 「アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク」~第1楽章

Resphigh : Antiche Danze「イタリアーナ」、「サザエさん」のテーマ曲

 

モーツアルトは宮廷の音楽らしく優美に演奏するのがいいとのこと。指導者さんは1970年代まで主流だったウィーン風のモーツアルト演奏がお好みらしい。スフォルツァンドはガッツリ弾かずにふわっと膨らませて弾くとか、重音を柔らかく響かせるとか、スタッカートが連続する刻みを、弓を弾ませながら軽快に弾くとか、そういう注意を受けた。アーノンクールあたりから流行した刺激的なピリオド奏法とは無縁の昔風の典雅なモーツアルトを目指す。

 

レスピーギの「古代舞曲のためのアリア~イタリアーナ」は強弱の付け方が古典派と違う点を意識するようにとのこと。クレシェンド、デクレシェンドのダイナミックな急激な変化が求められる。「サザエさん」のテーマ曲は新曲。リズムが難しい編曲になっていて、みなさん難儀していた。エイトビートの曲のためリズムの後打ちを強調するよう言われた。クラシック音楽の4拍子との違いを詳しく教わった。

 

 

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弦楽合奏#30

雨天で練習室の中も肌寒かったが、以下のメニューを弾いた。

 

≪ 基 礎 練 習 ≫

 

①オリジナルの 基礎練習曲(タイのあるリズム):三連符の途中に休符が挟んであってリズムのカウントが変則的にしつらえてある

 

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Handel Water Music No.1 Overture :たいそうゆったりした速度での練習となった。速く弾く必要はなく、細部を丁寧にチェックしながら進む。

 

 

≪ 曲 の 練 習 ≫

 

①Mozart 「アイネ、クライネ、ナハト、ムジーク(1楽章)」:だいぶこなれてきた。この曲も遅めのテンポで細部を丁寧に詰めていった。今日はスタッカート指定がある箇所のボーイングについて、指導者から細かい注文が出ていた。歯切れよく弾かずに、だらーっと流れてしまう点の修正。モーツアルトらしく弾くボーイングは難しい。

 

②Resphigh : Antiche Danze「イタリアーナ」:ピアノからフォルテまでの音量差を十分に付けて弾く練習を重点的にやった。ヘンデルモーツアルトの曲とは音楽のスタイルが違うのでその点を重視。 

 

北の国から: 今日で終了。

 

平成時代の弾き納めとなった。往復とも道路はガラガラで通行する車の数が少なかった。天気が悪いから、皆さんお出かけを控えているのだろうか?

 

 

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子供オケを聞く

地元で活動しているジュニア+合奏団の定期演奏会を聞いた。名称にプラスが付いているのは大学生以上の大人も参加しているため。もともとは高校生以下限定の団体だったが、桐朋音大に進学したヴァイオリンの子もいて、大学生以上も参加可能になった由。

 

曲目はヴィヴァルディ「四季」から春  ソロは高校3年生の女子(上手だった)

 

チャイコフスキーロココの主題による変奏曲」チェロの独奏はルドヴィード・カンタ氏

 

モーツアルト 交響曲第41番「ジュピター」

 

演奏会が始まる前にロビーコンサートがあり、子供たちが「アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク」の1楽章を演奏した。

 

ヴィヴァルディはソロは良かったが、オケが大人数だったので(たとえばチェロは8名もいた)小回りが利かない演奏になっていた。チェロがやたらと多いのは、数年前に地元オケを一斉に退団し、子供オケに移籍した大人たちがいるためである。

 

ロココ変奏曲でソロを弾いたカンタさんは相変わらず渋い重厚な演奏を披露していたが、この曲が持つ単調さをカバー出来るものではなかった。チャイコフスキーは普通のチェロ協奏曲を作曲していたら(チェロ協奏曲は少ないゆえに)よかっただろうにと思う。

 

最後の「ジュピター」はチェロが10人に増えた(カンタさんがトップで弾いたため)。ヴァイオリンも20人とたっぷり。ヴィオラは6名、コントラバスは3名。弦はかなり分厚く、管楽器は上手なゲスト奏者ばかり。こうなると演奏は安定し危なげない。

 

ヴィオラやチェロが大人主体になるのは仕方ないとはいえ、レイトの大人の割合が増えれば音の濁りも増えてくる。子供とレイトの違いは、右手のボーイングの動きや左手のヴィブラートのかけ方を見ていれば一目瞭然だった。ということでロビーコンサートで披露された指揮者なし、ほぼ子供だけで弾いた「アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク」が最も感銘を受けた演奏といえる。音が柔和でピュア、清潔感があって澄んでいたのだ。子供はしなやかで柔らかい音を出し、レイトの大人は硬くて粗い音を出す。

 

 

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チェロ・アンサンブル#83

O先生のレッスン、4月の2回目。5名が出席。サポージニコフ教本は98番から100番まで進んだ。後半はチェロ4重奏用に編曲されたメンデルスゾーン「結婚行進曲」の4回目の練習。いつものように担当パートをローテーションし、私は2番担当になった。 この曲の2番は厄介で、中間部に弾きにくいハイポジションが出てくる。1番担当の女性は気張って練習してきたらしく早めのテンポでスイスイ弾いた(というか徐々に走り出していた)。この曲を合わせるのは今回で4回目となるものの、どのパートも初めて弾くわけだから、いきなり快速テンポでやられると面食らってまう。問題のハイポジションのフィンガリングを先生からアドヴァイスしてもらい、最後には弾き通せてヤレヤレだった。この曲は今日で終了。次回からショスタコーヴィッチの小品を取り上げる予定。

 

午前中のチェロの練習が終わった後、近隣の都市にあるアマオケ定期演奏会を聞きに出かけた。10年ほど前に出来た若いオケで何度か聞かせてもらっているけれど、好調な時はキリっと締まった演奏を聞かせる。今日のプログラムはブラームス「大学祝典序曲」、リヒャルト・シュトラウスオーボエ協奏曲」、ブラ―ムス「交響曲第1番」、アンコールはシベリウスの「カレリア」組曲 3.行進曲風に。

 

前半の2曲はそつなくきれいにまとまっていた。リヒャルト・シュトラウスオーボエソロはドイツで活躍している日本女性で大変上手だった。この曲、CDでは聞いたことがあったが生演奏は初めて。独り言をつぶやいているような、あるいはコチョコチョとくすぐられているような音楽だった。コンチェルトというより室内楽に近いインティメートな雰囲気。ヴァイオリンがサワサワと囁くようにソロに寄り添うオーケストレーションに感心するものの、ソロとオケとのコントラストがはっきりせず、協奏曲にしてはソロが映えない感じがした。

 

 後半のブラ―ム「交響曲第1番」は疲れて緊張感が緩んだのか、木管楽器オーボエクラリネット)にミスが続出、ホルンなどの金管大過なく演奏していた。指揮者の年配男性は長くこのオケを指導している方だそうで、指揮姿は踊っているような流暢な動きを見せていたけれど、決め所での指示の出し方はちょっと曖昧だったかも。アンサンブルの縦の線が不揃いになりがちで、総じてメリハリは弱め、テンポもゆっくりの安全運転に徹していた。アマチュアの実力を勘案してのことだろう。

 

終楽章の有名な主題が登場したあたりで何人かのお客さんが席を立って帰った。聞かせどころなのに。退屈で我慢しきれなくなったのかもしれないが、演奏中に席を立つのはよろしくない。演奏中におしゃべりを始める高齢男性2名も近所にいて、周囲のお客さんがピリピリしていた。全体的にはアマオケの平均的な水準の演奏になっていたものの、有名な曲だから皆さんよく知っているため木管のミスが目立ってしまった。聴衆は正直で、相応の反応をしたのかもしれない。

 

 

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ポーラ美術館「印象派、記憶への旅」展を見る

ポーラ美術館の企画展を山田五郎氏が案内役を務める美術番組が取り上げていた。放送翌日、さっそく箱根に出かけて見てきた。小田原方面から仙石原に向かう道路は箱根湯本あたりは新緑がきれいで、山の上の方には満開の山桜も点在していた。宮城野の川べりのソメイヨシノはかなり散ってしまいスカスカ状態。今年は鳥害で花芽が食べられてしまったそうだ。同じ場所に植えられた枝垂れ桜は満開で、道路際のフェンスを越えて張り出すピンクの艶やかさが凄かった。仙石原に近づくと標高が上がり、周囲の景色はどんどん季節を遡って冬景色に逆戻りする。コブシや馬酔木の白い花が枯れた森の中で目立っていた。

 

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宮城野の枝垂れ桜

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 「印象派、記憶への旅」展は、ひろしま美術館との共同開催だそうで、双方の絵画コレクションを一か所に集めて並べて見せる趣向。それだけといってしまったら身も蓋もないけれど、実態はそういうこと。展示の中身はコローやドラクロワなどから、ピカソ、ブラック、マティスまで網羅している。印象派の前後がかなり多く、全部で73作品のうち印象派のボリュームは20点ぐらいと控えめである。保険評価額を計算すれば控えめどころか、たいした金額になるが、それはお客さんには関係ない話。印象派展と思って期待して行くとオヤオヤとなるかもしれない。ポーラの営業サイドは、水戸黄門の印籠みたいな集客力を持つ「印象派展」のタイトルが欲しかったのだろう。これまでの展示で繰り返し見せて目垢が付いた作品が多いから、何度か来ている人はひろしま美術館の作品に新味を感じる。

 

展示構成は学芸員があれやこれやと勉強して、こんな風にまとめましたというレポートを拝見するような雰囲気だった。5章に分けていろいろ解説を付けていたが、印象派関連の本を読めば書いてあるような内容だから、新しい切り口を紹介する意欲はあまり感じない。個々の作品から共通要素をピックアップし、似た者同士でまとめる手法は、類似点を指摘するのは簡単だし、お客さんにもわかりやすい。しかし、同じ印象派でも作家それぞれの持ち味には相違点があり、それが個性になっているわけで、どこがどう違い、その違いは何に由来するとか、違いが意味するところを解析した方が手間はかかるが、より興味深い展覧会になっただろう。

 

①           世界の広がり:好奇心とノスタルジー 

②           都市への視線:パノラマとポートレート

③           風景のなかのかたち:空間と反映 

④           風景をみたす光:色彩と詩情 

⑤           記憶への旅:ゴッホセザンヌマティス

 

 ところどころに所蔵品の文献調査や最新の光学調査の成果を発表するコーナーを設けていた。この手の調査は作品の戸籍作りのような作業で、所蔵者にとっては意味のある研究といえる。とはいえ作品の本質や作家の芸術性を深く掘り下げて考えるための手がかりになる情報ではない。何年に描かれたとか、どこで描かれたとか、誰が持っていたかとかの調査は、マニアックであるがゆえに一般の愛好家にとっては専門的に過ぎ、どうでもいいことに思えるかもしれない。展示が一方通行の研究発表会みたいになってくる危険性がある。とはいうものの広島まで行かないと拝見出来ないモネやマルケの作品と出会えたのはうれしかった。

 

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ゴッホの作品は額縁を外してカンバスの裏側に付着した絵具の跡を見せていた。

 

 

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ひろしま美術館のモネ

 

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ひろしま美術館のマルケ

 

展覧会は第1会場と第2会場に分かれていて、1フロア下がった場所にある第2会場では、いつのまにか企画展が終わり常設展示に切り替わっていた。常設にも似たような作品が並んでいるため、どこが区切りなのかよくわからない。展覧会の企画自体、印象派を売りにするポーラ美術館の常設展と大差ない内容だから仕方ないが、起承転結が曖昧な展示を見ていると竜頭蛇尾という言葉が浮かんでくる。

 

一番下のフロアにある他の展示室では、常設的な展示として明治以降の日本の洋画とガレ、ドームらのアール・ヌーヴォーのガラスの展示をやっていた。【ガラス工芸名作選~花ひらく異国趣味】と題したポーラ美術館収蔵ガラス展は、「19世紀のオリエンタリスム(東方趣味)やジャポニスム(日本趣味)が反映された名品をご紹介します」と入口のパネルに書いてあった。中に入ればネオ・ロココアール・ヌーヴォーなど異国趣味と直接関係しない作品がずらりと並ぶ。ポーラ所蔵の中国や日本の古陶磁も少し混ぜてあり、持っているものを何となく置いたようで、展示タイトルと中身が不一致なのは羊頭狗肉という言葉を連想する。ポーラ美術館は時々訪れ贔屓にしている美術館だが、開館して17年目に入り、タガが緩んできたのだろうか。ラフというかルーズというか、詰めの甘い展示を見て残念に思った。一方、レストランのメニューは質が向上していて、盛り付けの美しさ、味付けも上々で大変結構でした。

 

 

 

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