芸術の力

年末に聞いた東京交響楽団の第九演奏会。毎年、一緒に第九を聞いている古くからの友人が急にヨーロッパに出かけることになりチケットが1枚余ってしまった。誰を誘うか?思い出したのは、昨年8月、運転中に交差点で後続車に追突され指の骨折とムチ打ち症の治療で辛い日々を送っているバイオリン関連の友人のこと。 以前にも轢き逃げされて足を怪我した経験がある運の悪い人である。8月の事故後は回復が遅れて体調がすぐれない日が多いらしい。最初にかかった医者が骨折を見落としたとかで診断書に不備が生じ(本人が直ぐに気付かなかったのは気が動転していたからか、身体中が痛んでいたからだろうか?)相手の自動車保険による骨折の治療費が降りないとか。弁護士を入れた後処理でもトラブって嫌な思いをしていると聞く。気の毒なことだ。

郊外の住まいから1時間以上かかる赤坂のサントリーホールまで来るのは、身体への負担が重いので案じられたが、一ヶ月前に声をかけたら行きたいという。「もういくつ寝ると〜♪」みたいに年末の楽しみが出来たと喜んでいた。具合が悪くて前日も臥せっていたそうだが、演奏会当日は元気な顔を見せてくれた(だいぶ無理してる感触はあったが)。翌日、嬉しい知らせがあった。

「コンサートで改めて自分の元気の源が認識できました。夢中で聴いていて興奮してアドレナリンでまくりでした。頚も無意識で動かしていたようで翌日は少し浮腫んでいました。痛みより満足感が上まっているのでへっちゃらです。どんな1年であっても浄化された気分になりました」。

随分と喜んでくれたようだ。体調が悪いのを承知でお誘いして良かった。音楽や美術、文学といった芸術と呼ばれるものが人間にとっていかなる意味を持つのか。コンサートが終わった後、ホール隣のレストランで非常に能弁だった彼女の様子を見ていて、何となく分かった気がする。

芸術は人間にとっていかなる意味を持つのか。吉田秀和さんが以下のような見解を披露されている。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

人生の外に特別「詩的なもの」があるのではなくて、人生の味わいが詩になるように、芸術は衣食住のかざりではなく、生活の中から生まれて来るものである。芸術は人生の、ふだんより高く、強く、豊かな緊張をもった一刻から、外にむかって吹き上げ、あふれ出たもの、それに形を与える仕事だといえる。そうやって出来た芸術作品には、それを見たり聞いたりする人に、そのことを直感さす力が込められている。だから、私たちは芸術作品にふれるのを好み、それによって充実感を覚え、楽しい気持ちになるのである。
芸術とは人生の外にあるもので、それが加わると、人生にプラスになるというのではなくて、新鮮な果物のように、着心地のいい服のように、住み心地の良い家のように、人生そのものを形成する一要素、人生の内容の一部にほかならない。そうして良い芸術は特に、人生の充実し高揚した一刻をつかむきっかけになりうるという点で、単なる手足を動かす労働に従事するという域から一歩先に出る。(引用終わり)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「衣食足りて礼節を知る」というが、衣はともかくも食と住を求めるは犬猫でも同じこと。人間と動物を分けるものは精神の営みの多寡になるだろうか。食物が肉体に必要なように、芸術は傷付いた心を癒やし修復して豊かにする栄養となりうる。戦時中のドイツにとどまり辛い日々を送る同胞のために空襲警報が出ている最中でも演奏会を続けたフルトヴェングラーの逸話とか、同じく戦争中も定期演奏会を止めなかった新響(NHK交響楽団の前身。1945年6月、終戦を2ヶ月後に控えた時期に日比谷公会堂で演奏会をやっていた)のことを思い出す。極限状態におかれた人間に音楽が果たした役割は、飽食に慣れた時代の私たちには容易に想像出来ないけれど、身近なトラブルを抱えた人にとって、音楽がどのように作用するのかは目撃出来た。「品性と心意気さえあればどこでもやっていけるよ」とは学生時代に恩師から聞いた言葉である。芸術はある種の精神活動の領域に影響力を持っている。しかし心の王国の扉を開く鍵を持つ人は限られる。芸術に親しみ共感できる心のゆとりを大切にしたいと思う。




にほんブログ村 クラシックブログ チェロへ
にほんブログ村

にほんブログ村 クラシックブログ ヴァイオリンへ
にほんブログ村