ガラガラに空いた新幹線の中で考えたこと

29日は仕事で関西まで日帰りした。往復の新幹線(ひかり)は、念のため指定席を買っておいた。 夕方の上りは、指定席がかなり混んでいて、3列シートの中央しか残っていなかった。ゴールデンウィークだから仕方ない。


    しかし(!)


過去の経験からいうと、こんな場合、自由席は空いていることが多いのだ。


そこで、下り列車に乗るとき、ホームの先頭近くまで行って、自由席の2号車前で待機してみた・・・・予想は的中。車内はガラガラ・スカスカだった。

同じ時間帯の平日では、出張族が多くてそれなりに席が埋まっているが、今日は3列シートの半分以上は空席だった。


帰りの上り列車も指定券を持っていたが使わず、2号車の前で待機。 19時近くにやってきた列車の自由席はどの車両も空いていた。 特に1号車、2号車はガラガラで、サラリーマンがいない分、完全に平日より乗客が少ない。同じ列車の指定席は満席に近いのにである。

混み合う指定席で窮屈な思いをしなくて済んだ。前後が空席の車内でゆるゆる・ウトウトしながら、亡くなったヤーノシュ・シュタルケルの芸風について考えたり。

シュタルケルは21歳でブダペスト国立歌劇場管弦楽団およびブダペストフィルハーモニー管弦楽団の首席チェロ奏者となった。その後、24歳でダラス交響楽団、25歳でメトロポリタン歌劇場管弦楽団、29歳でシカゴ交響楽団で首席をつとめ、34歳でオーケストラをやめて大学教授となった。メトとシカゴのポストはフリッツ・ライナーの招きに応じたものだ。あのライナーからの信任が厚かったとは、さすがである。

弱冠20歳でトスカニーニNBC響の首席、その後、21歳でクリーヴランド管弦楽団、26歳でニューヨーク・フィルの首席チェリストとなったレナード・ローズ、ローズの弟子で21歳でジョージ・セル時代のクリーブランド管弦楽団の首席になったリン・ハレル。こういった人たちもオーケストラを退団した後、ソリストとして頭角を現した。

三者三様といいたいところだが、キャリアの最初からソリストとして華々しい活躍をしたロストロポーヴィッチとかジャクリーヌ・デュプレらの芸風と比べると、シュタルケルもローズもハレルも、ちょっと違う。その違い方には3人とも共通するところがある。

バイオリニストでいえば、アムステルダム・コンセルトヘボウの名コンサートマスターだったヘルマン・クレバースとか、ウィーン・フィルのゲルハルト・ヘッツェル、ベルリンのRIAS放送響のコンマスだった豊田耕児さんなんかも、生粋のソリストたちとは、ちょっと違うテンペラメントの持ち主のような気がする。

クレバースや豊田さんは、バッハの2台のバイオリンのための協奏曲ニ短調 BWV1043の録音で、アルトゥール・グリュミオーの相手をつとめている。2度の録音のいずれもで、惜しげもなく美音をまき散らし、艶やかな大輪の牡丹の花が開くような演奏をするグリュミオーに対して、セカンドバイオリンのご両人は謙虚で控えめ。手堅く堅実にシコシコ弾いている風に聞こえる。技術的には遜色ないが、常に抑制を効かせ、出過ぎない演奏を心がけているような感じ。端麗辛口というか、何というか・・音楽家としての気質がソリストのそれではないのだ。

シャタルケルがやった音楽も、外に向かって華やかに放出してゆく開放的なタイプというより、自己を厳しく律し、内に向けて深く沈潜・凝縮しようと志向するところがあったような気がする。外連味を排した求道者のイメージである。そういえば、戦前にボストン交響楽団、パリ音楽院管弦楽団の首席チェロ奏者を歴任したポール・トルトゥリエも、そんなタイプだった。











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