都心の美術館を巡る

お花見がてら美術館巡りに出かけた。最初は両国の江戸東京博物館レオナルド・ダ・ヴィンチ展」。午前10時過ぎで結構な混みよう。チケット売り場には長蛇の列が出来ていた。私は招待状を持参したからすんなり入場出来たものの、展示室の中も人でいっぱい。この展覧会に出ているレオナルドの真筆油彩画は「糸巻きの聖母」1点のみ。

NHKがイギリス貴族の館に伝わった来歴を何度も放送したから効果てきめん。絵の前にも長蛇の列。幾重にも折れ曲がって並び、かなり待たされて、ようやく絵の前に辿り着く。とはいえ、じっくり見ている時間はなく押し出された。スフマートというレオナルド好みのぼかし描法は大変丁寧なデリケートな仕事ぶりで本人っぽい感じだったが、聖母もイエスも妙に平板で薄っぺら。存在感が希薄な幻影を見るような印象がある。もっと描きこむつもりだったのが途中で止まったレオナルドによくある未完成の作品なのだろうか?背景を誰かが描き直しているそうで緊張感の無いぼんやりした景色が広がっているのも印象を悪くする。

同じ展示室にはレオナルド派によるヨハネとか、男女の性別が不明な気色悪い微笑を浮かべるコピー作品が並んでいた。そういうエピゴーネンと比べれば「糸巻きの聖母」がダントツに優秀であることは異論ない。レオナルドの手稿類も真筆は少なくてコピー類が多かった。海外から借りられる点数に制約があるレオナルドの展覧会だから、1点でも真筆が来ればそれで十分。他が水増し気味なのは目をつぶろう。(4月10日まで開催中)

次に東京都美術館に移動して「ボッティチェリ展」を見た。上野駅は花見客が殺到して大変な混雑。駅員に誘導され改札を出るまでに行列する有り様だった。都美内部はそれほどの混雑ではなく(江戸博より空いていた)流れは良かったので助かった。こちらはボッティチェリ、フィリッポ・リッピ、フィリッポ・リッピーノ、ベロッキョなどイタリアルネサンス時代のスターが勢揃い。氏名不詳のスクール作品ではなく、真筆の大作がズラーっと並んでいるのだからまことに壮観だった。どの作品も品格の高い優美な顔立ちの女性が出てきて、はぁ〜っとため息。大変に見応えのある内容といえ、近年まれに見る立派な展覧会だった。(4月3日まで)

続いて東京国立博物館の「黒田清輝展」を見る。生誕150年なのだそうだ。たくさんの作品が集まっていた。黒田の全貌がわかる内容で学芸員はいい仕事をしている。黒田と同時代の内外の画家の作品も出品され比較出来る親切さ。しかし、全貌が分かってしまったので、黒田清輝という画家がたいそう有名な割には、作品は個性が弱いというか、穏健な職人気質というか、画学校の教師の絵というポジションに留まっているように思われた。少なくとも時代の先端を切り開いてゆくような覇気を感じさせる絵画ではなく、上流階級の名門の御曹司によって生み出された常にゆとりを感じさせる(=切迫感とか緊張感が欠如した)上品な絵というポジションだろうか。見ている方もリッチな気分になる。(5月15日まで)

東博では13時から本館の大階段でヴァイオリン独奏会が開かれるというアナウンスがあり、平成館の黒田展を見始めたばかりだったが、急遽本館に移動。加藤えりなさんがバルトーク無伴奏ヴァイオリンソナタ Sz. 117を弾いていた。ソリストは1階と2階の中間にある踊り場で演奏した。私は最初階段の下の方でソリストを見上げる位置で聞いていたが、低音は聞こえるけど高音がさっぱり響かない。楽器の調子が悪いのかとも思った。途中で2階に移動して今度は上から見下ろす場所で聞いたら、高音もバッチリ聞こえた。ヴァイオリンという楽器は音が上に登っていく傾向があるようで、奏者を下から見上げるような位置で聞いてはダメなのだろう。

30分の演奏が終了してから本館の常設展示を見て回ったが、室内がきれいにリニューアルされ、昔に比べて随分と垢抜けたスマートな展示になっていた。かつては、いかにもの博物館的展示でずらずらと横一列にたくさん並べるだけだったのが、今はあえて作品を置かない壁だけを見せたりして、広大な展示空間を贅沢に使う知恵が付いたみたい。よい傾向である。本館1階、2階を回ってくたびれたが、ちょうど裏庭の桜が満開でお庭公開中とのこと。本館の外側をぐるりと一周し満開のサクラの大木を見物してから平成館に戻った。広い敷地の東博をぐるぐると何周もしてしまった。

次に竹橋の東京国立近代美術館安田靫彦展」に向かう。上野公園の桜並木は八部咲きで人がいっぱい。外人もいっぱい。ブルーシートの上では宴会真っ最中。人混みをかき分けながら広小路口まで降りて銀座線に乗った。日本橋東西線に乗り換え竹橋で下車。皇居のお堀端の桜はまだそれほど咲いてない感じだった。近代美術館で「安田靫彦展」を見るのは最初ではない。私が学生だった1970年代にも同じ会場で開催された「安田靫彦展」を見た記憶がある。その後も何回か安田の展覧会を見たが、何度見ても、いつも感心し、畏れ入るばかり。巨匠の中の巨匠。圧倒的な存在感を持つ画家である。

安田が引く線には命が宿っているように見える。フリーハンドで書かれたとは信じがたいほどのなめらかな均一性、同時に芯の強さもある筆線を引くのは神業に近い。線描の神妙さでは小林古径と双璧だろう。完璧な描線に洗練された色彩が乗ってくるのだからたまらない。歴史画では時代考証にもぬかりはなく、安心して見ていられる。人物の顔には生気がやどり、神妙な表情をしている。動物の顔も同様。我が身を炎に投げ入れ、自分の肉を行き倒れの旅人に捧げたという月のウサギの物語が絵巻になっていたが、動物の目の表情の凄さに見入るばかり。明治から昭和50年代前半までは、神がかった技を持つ画家が日本にいたのだ。残念ながら現在はそんな線を引ける画家は死に絶えて皆無。スプレー塗装の滝の絵が売れる時代である。

安田が15歳で描いた絵も出品されていたが、すでに基本的な技法はマスターされていて、練達の域に達しているのは驚きだった。それから80年近い歳月が流れ、90歳を超えた時点でも画技が全然衰えていないのは、さらに驚くしかない。天才が長寿を保ち、最後まで精進を重ねるとどうなるか。結果は安田晩年の作品を見ればわかる。近代日本画壇の中で突出した画人は春草、御舟、靭彦、古径、逢春、栖鳳、松園、岳陵・・と指折り数えてもかなりの数になる。日本画は昭和までは凄かった。現在では日本画というジャンル、洋画と対比的に見られてきた区分は意味を失ったように思う。(5月15日まで)

美術館巡りの最後は白金の庭園美術館「ガレの庭展」。午後4時頃に行ったので本館の室内が暗い。自然光でガラスを見せる趣向だそうで、電球による照明があるような、ないような薄暗さの中で拝見した。実際は小さくて弱い照明がケース内に仕込んであったけど、あまり効果はなく、どよ〜んとよどんだ暗がりの中にガラスが沈んでいるように見える。黄土色の壁紙が貼ってある部屋にアンバー色の透明ガラスを置いて、壁の色にガラスを溶け込ませ存在感を弱めていた例も。照明を当ててやれば輝き出すガラスも光がないと曇って見える。ところが新築された別館の展示は一転してLED照明がギラギラ、真っ白な光のどぎつさにビックリした。作品に敬意を払う姿勢がもう少し感じられるといいのだが全体にドライで大味な扱いと感じた。

「デザイン画があっても、それが実作と一致することはきわめて稀なことですが、今回は実作と一致するデザイン画をご紹介します。コレクターの手を経て今は日本にあるガラス作品と、オルセー美術館に眠るデザイン画の、100年ぶりの邂逅です」。主催者HPに書かれている宣伝文である。作品と下絵を対比して見せる有意義な企画といいながら、ガラスは本館、下絵は別館にと分かれて置いてあるのは不親切だった。下絵を見ながら「こんな作品、どこかにあったっけ?」とつぶやくお客さんの声が聞こえた。(4月10日まで)




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