東京国立博物館「縄文 1万年の美の鼓動」展を見る 

炎天下、東博の縄文展(レセプション)に行ってきた。表門を入ると目の前に貸し日傘の束が用意されていた。奥まった場所にある平成館までは徒歩で数分かかる。その間に使用し、平成館入り口で返却するシステム。昔の東博では考えられないサービスである。

縄文関係で国宝指定されている6件全部を集結展示するのが今回の目玉だそうだ。全部そろうのは7月31日から9月2日まで。7月29日までは4点しか並んでいない。国宝を全部拝みたい人は8月になってからお出かけ下さい。



                    8月になると国宝6点が勢ぞろい



展示数は200件を超過。平成館2階の東西の展示室に土器、土偶、石器の類が溢れていた。似たようなものが多いから展示が単調になるかといえば、全然そんな気配はない。単なる職人仕事の羅列ではない立派なアート作品が次々に出てくるから、招待客はなかなか見終わらない。内覧会は16時終了予定だったが、部屋からお客さんが出てゆかないので30分ぐらいは延長しただろう。単に数が多いだけじゃなく、展示品の魅力に引き付けられて立ち去りがたい気分になるのだ。


会場内で旧知の日本美術史(江戸絵画)の大先生にお目にかかった。「いや〜参りましたねぇ〜♪」と土器の前で感慨に耽っておられた。そうなのだ。紀元前1万年頃〜紀元前1000年に作られた土器の造形力の素晴らしいことといったら。装飾の多くは何かの自然形態を写しているというよりも、染織などの文様構成と同じ発想で考えられた抽象美術の類だろう。この場合、言葉で補足説明が可能な要素はほとんど無いため、線や面といった純粋な造形要素を操る発想力で勝負せざるを得ない。作り手のセンスがストレートにわかってしまうから、誤魔化しが効かない世界である。


 
                      BC.2000-1000年
  クリストファー・ドレッサーのポットを連想させる縄文のエレガンス
  球体に細い突起をいくつか組み合わせるところが・・・



                ドレッサー 1880年


BC.3000-2000年

BC.3000年

火炎土器や遮光土偶のエモーショナルな表情も興味深いが、私は初期の土器のシンプルな造形から滲み出てくる作り手のセンスの良さに感心した。屈託のない素直さをたたえてゆったりと立ち上がる器の表面につけられた縄目の数々。へらでえぐり取った線描が奏でる伸びやかなリズムの心地よさ。エーゲ文明の陶器を連想させる闊達な曲線美に目を見張ってしまった。

文様構成は論理的な法則性を基本にしている。耳飾りという素焼きの小品の複雑な構成に典型的に表れているように、点対称や同型反復という基本原理に従って造形が組み立てられている。1900年頃に一世を風靡したアール・ヌーヴォーを代表するデザイナー、エクトル・ギマールと同じセンスを持つ造形作家が太古の日本に存在していたのである。



          耳飾りBC.1000-400年


  ギマールがデザインしたのパリの地下鉄入口装飾(鋳鉄 1900年)


丁寧に作られた装飾の数々を眺めると、日本人は1万年前から「几帳面」な仕事を愛する民族だったことがわかる。朝鮮半島や中国の場合は、見えない部分の造作を省略する合理性を持っているが(金銅仏の背中を空洞のまま放置するとか、現代でもホテルの洗面台の裏側は雑に作るとか、平然と手を抜く)、日本人は隅から隅まできっちり作らないと気が済まないわけで、そういうマニアックな仕事ぶりは縄文土器にも看取出来る。

私の場合、東博に行っても考古の常設展示室に立ち寄る機会はほとんどない。いつもスカスカで閑古鳥が鳴いている印象があるのは、東博が先史時代から近現代までを単一施設で網羅する結果、縄文関係が数量的には序論的な扱いになっているためかもしれない。今度の展覧会のような、質量ともに充実した展示を見せられると、先史時代のみを専門に扱う国立博物館があれば、随分と興味のあり様が変わるのではないかと思った。現状のような考古資料としての扱いではなく、美術史的なアプローチによる紹介も欲しいところ。図録の巻頭論文に書かれている「暮らしの美」とか「美のうねり」といった説明は観念的でレトロな時代性を感じさせる。


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